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コラム

2012/6/19

久しぶりにインドへ行きました!

昨年の秋、懐かしいインドに行ってきました。現地で活動しておられる仏教関係の方々が毎年一時帰国される時にはいつもお話を伺っていたのですが、そのつどもう一度行ってみたいとの想いが募っておりました。

初めてインドに行ったのは1992年で、カリギリ(タミールナド)のハンセン病研究センターに1週間閉じこもって勉強しました。インド人の医師3人と共に4人での宿舎住まいで、20年前の懐かしい思い出です。

二度目のインド訪問は、西暦2000年にアグラで開催されたアジアハンセン病学会で発表するためでした。学会の合間に、同市内にあるJALMA(旧救らいセンター)を訪れ、かつて日本が作った施設が現地の研究者たちに引き継がれ、立派に活動している様子に感動したものです。後でわかったことですが、私の父(1995年に逝去)が1971年にこのアグラの施設を訪問して、当時の宮崎博士に会っておりました!父はその後何度かインドの仏跡を訪問していますが、その時の旅行記録を絵巻物に残していたのが、後で見つかったのです。この絵の存在を知ってから、もう一度インドの空気を吸いたい気持ちが一層募ってまいりました。

日々の仕事は尽きることは無いのですが、エイッとばかり意を決して、三度目のインド訪問となりました。森田上人と浅井上人に多大なご面倒をおかけすることになりましたが、旅行中は見事な時間配分で、今回の目的は100%以上完遂することができました。

目的の一つは、ハンセン病の現状です。インドは今も世界一患者数の多い国であることに変わりがありません。WHO(世界保健機構)はこの数年来患者数は大きく減少したと報告していますが、疫学的現状を現場の声として聞きたいと思いました。もう一つは、これほど多くの新患者が出る背景には何があるのか、ということです。

9月18日夜、予定通りムンバイの飛行場に到着すると、森田上人が迎えて下さり、夜の雑踏の中を抜けて日本山のムンバイ道場に着くと、もう深夜です。廊下に寝ている使用人のおじさんを踏みつけないようそっと歩いて、とにかく用意していただいた部屋でぐっすり寝込んでしまいました。

翌朝いよいよワルダに向けて出発です。ナグプールの飛行場に着くと、ビレンチさんとマンサラム夫妻が迎えて下さいました。これでいよいよ本番。自動車でワルダのお寺まで直行です。牛と車が同居する凸凹道は、20年前を彷彿とさせます。インドのにおいがします。雑踏の街中を過ぎてお寺に着くと、全く別世界。きれいに整理された庭や仏舎利塔、二匹の犬も、何だか巷の犬とは違って見えます。心をこめて用意していただいた食事や寝室、私のためにお骨折りいただいたたくさんの方々に、感謝の気持ちでいっぱいでした。夕方のお祈りの時間になると、三々五々集まってくる近所の人々、子供や若い人が多いのに感動しました。ミヤンマー(ビルマ)でもそうですが、人々の暮らしの中に祈りがしっくり溶け込んでいます。こんな習慣を、私たちはいつ忘れてきたのでしょう。

ワルダに来て翌日は、アナンダバンのGandhi Memorial Leprosy Foundationの見学です。街の中を潜り抜けた一角に、飾り気の無いガランとした建物に到着すると、Dr. Vijai Pulが待っていてくださいました。彼とは、いろいろの学会で会っている筈です。インドにおけるハンセン病対策の最前線にいる人で、ちょうど疫学調査のまとめをする段階でした。昨年の新患者数は、合計126,800人。相変わらず世界の新患者総計の約半分を占めています。ただこの数字は、あくまで発見された患者数で、実際の患者数には多くの説明が必要なことは自明のことです。患者が出続ける背景には、ポケットエリアと呼ばれる村落単位の多発地域があることが知られています。インドでは、少数民族へのアプローチがとても困難で、多民族、多宗教、多人種を擁する混沌の国の中でのポケットエリアに対して、対策はかなり困難なものとなるでしょう。Dr. Pulの話では、年に一度のアクセスは至難の業とのこと、道路も危険な上に、マラリア感染をはじめ様々な危険を冒しての現地調査は、ほとんどできていないのではないかと思われました。現状ではひたすら出てきた患者を治すのみ、これでは新患者の減少は望めません。さらに障害となっているのが、ハンセン病に対する根強い差別です。面白いことに、差別されるかどうかは、菌の有無ではなく、外見上の障害の有無で決まります。例えば曲がった指を手術で治せば、もう差別の対象にはならないということです。これはどこの国でも、広くハンセン病の多発地域で見られる現象です。それだけに、早期発見・早期治療で障害の出る前に治すことが大切ですが、今なお病気を隠そうとする傾向が、治療開始を遅らせ、結局は障害が残ってしまう例が後を絶たないようです。

入院病棟では、独特の四肢潰瘍の治療を目的に入院している人がほとんどです。手足に知覚麻痺があると、日常生活の中でしばしば怪我をします。しかし知覚麻痺ゆえに、傷を受けたことに気づくのも遅れ、しばしば骨に達する深い潰瘍となってしまいます。日本でもよく経験することです。日本では様々な創傷治癒方法を駆使して治療を行いますが、ここワルダではほとんど寝かせておくだけで、局部のドレッシングは1日1回、薬はほとんどなし、仕事を休ませて安静にすれば自然に治るといいます。まあ全部ではなくても、たぶん半数くらいはそれでいけるのでしょう。薬剤、医療機器、医療用品のすべてが無いものだらけのガランとした空間が「病院」なのです。食事と寝る空間が与えられているだけでも、「治療」になるのかも知れません。変形した顔や手足の形成外科的治療は望むべくもなく、この傷が一つ治っても、仕事を始めればまた何がしかの傷を作ってくるのでしょう。

翌日は、アーナンダワンに向けて朝6時に出発です。沿道の木の上で、サルの家族が私たちの車を見下ろし、牛が悠々と草を食んでいます。道路の悪さはものすごく、片道3,4時間、車を痛めつけながらガタガタ道を走りました。

到着したところは、途中で見た景色に比べれば、いわばお花園の雰囲気です。ババ・アムテの創立による巨大な組織で、約一万人が暮らす一大共同体です。ハンセン病および様々な障害を持つ人々が、互いに自給自足を目指して生活しています。視覚障害者、聾唖者たちも共同生活をしながら、教育・職業訓練を受けています。アーナンダワンは「喜びの里」の意だそうで、社会から排斥された人々のやっとたどり着いた楽園となっているのでしょう。ババ・アムテ夫妻のお墓は、美しい花々に彩られ、施設内はゴミ一つなく整然としています。敷地内のあちこちにきれいな池があり、開発の時に捕獲された動物たちにも住処が与えられて、ゆったりとした動物園のように管理されています。特に職業訓練の施設が充実していて、一般住民も訓練を受けています。一方診療部門を見ると、外来には毎日何人ものハンセン病の患者が受診しており、やはりここはハンセン病多発地帯のど真ん中であることを思い出します。ここの病棟も、傷治療の患者でベッドはほぼ満床です。先日まで路上で物乞いをしていた人もいました。彼も傷が治れば、職業訓練を受けるか、何がしかの仕事を与えられて、住人となっていくのでしょう。敷地内には、家具職人、大工さん、織物工場、手工芸品作り、車やバイクの修理と何でもありで、時には自転車も作ってしまいます。たくさんの人たちにインタビューしました。発病後に家族から放逐された人が大多数ですが、ハンセン病ではないが類似の障害のために社会から見放された人、先天的な障害のために家族が捨てた子供なども混じっています。それぞれがここに来るまでの理由があって、ここに来てやっと自分の場所が得られたのでしょう。確かにここは、「喜びの里」と呼ばれる楽園でしょう。しかし垣根を越えた外側には、彼らが順応できなかった社会があります。この垣根が無くなるまで、彼らに本当の自由はありません。

障害者に対して延々と続く社会の差別感情は、どこから来るのでしょう?何千年と続くカースト制度以外にも、理屈では説明できない「感情」がそうさせているのでしょうか?同じようなことが、日本にもありました。今もあるのかも知れません。私たちには、理屈で判っていることに、感情を従わせることができない部分があります。驚いたことにインドでは、医療従事者たちもハンセン病患者を避けると聞きました。インドのハンセン病対策を総指揮しているDr. Pulが言うのですから、信じざるを得ません。何と情けないことでしょう!私も医療従事者の一人として、拳を挙げて啓発活動を始めたくなってしまいます。しかし直ぐに帰ってしまう一旅行者の私には、排斥された人たちと手に手を取って、肌の温もりを伝え合うことくらいしかできません。

アーナンダワンの帰り道、またガタガタ道を何時間もかけてワルダに戻った時には、日も暮れかかっていましたが、無理を言ってガンジー縁の村々に連れて行っていただきました。藤井日達上人も会見された、ガンジー翁の慎ましい小さな土壁の家、ここからインドの開放、虐げられたハンセン病患者の解放が始まったその場所が、きれいに整理された一角に大切に保存されていました。夕闇迫る頃、30数人の高齢の女性たちが住む一棟を訪問しました。かつてハンセン病を患った人たちです。その中に、マンサラム夫人のあつ子さんと、手を取り合って久々の挨拶を交わす老婦人がいました。マンサラム夫妻は、様々な人たちを支援してこられたことが分かります。

翌日またまた夜明けの出発。ビレンチさんとマンサラムさんに見送られて、ムンバイに戻る飛行機に乗りました。ムンバイでは再び森田上人が迎えてくださり、当日深夜の帰国時間まで、ムンバイで有意義な時間を過ごさせていただきました。

まずムンバイ道場に戻り、ムンバイの「スラム」を垣間見る機会を戴きました。これはお寺で働く女中さんの姉妹の家です。汚水に足を取られないよう、気をつけながらたどり着いた所は、6畳くらいの部屋に見えました。台所とベッドが1つ、若い女性が一人座っています。田舎から職を求めて出てきた家族です。ここに夫婦子供合わせて6人!が寝起きしているとのこと。きれいに片付いていますが、トイレやバスはもちろんありません。どこかで用を足すのでしょう。これが大都会のスラムの代表的な一角と、森田上人からお聞きしました。続いてビンナ・パリクさんの豪邸で、フィールドから直行してきた手足を洗い、お昼ご飯を戴きましたが、この富の集積はワルダから一直線に来た者にとってちょっとめまいがするほどの違いです。一休みさせていただいた後、そのまま運転手さんと自動車をお借りして、ムンバイの町を走ってもらいました。ガンジー縁の偉業を引き継いで、地道なNGO活動に取り組んでいる人、ガンジー翁の右腕となって働いたVinoba氏の甥という、本屋さんの二階で資料整理をしていた方も印象的でした。薄暗い二階の一室、外の喧騒を階下に聞きながら、ガンジーの偉大な足跡と、彼を支え共に働いた人々のことを、思い描いておりました。

いよいよ暗くなり、飛行機に乗るまであと数時間、Sen Kapadia夫妻のお宅を訪問しました。ずっと以前に夫妻を東京の我が家に招いたことがあるのですが、憶えていてくださって懐かしい再会でした。夫人は癌の化学療法を専門とする医師です。最先端の医療に携わる彼女に、昨日まで見てきたワルダの様子を話している途中、隣に住む女性が小学生の女の子を連れて我々の会話に参加しました。世界中のハンセン病患者の半数はインドの患者であること、根強い差別が患者の減少を大きく妨げていることなどが話題となりました。インドの伝統的・宗教的な社会構造が、差別の克服を大きく妨げているとしたら、一般庶民から見れば雲の上とも見えるこれらの人々に、ハンセン病を差別することの不合理を身近に感じてもらうことが、あのアーナンダワンの垣根を低くすることに繋がるのではないかと思いつつ、すばらしいベジタリアンのお料理を満喫しました。

大急ぎの駆け足で、短い時間にたくさんの収穫をさせていただきました。森田上人、浅井上人、ビレンチさん、そしてマンサラム夫妻、ありがとうございました。我々のクリニックに集まる、様々なバリアフリー化に篤い思いを持つ人々と共に、ワルダでの経験を分かち合いたいと思います。